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仙台短篇映画祭2011 9月17日(土)-19日(月・祝)
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五臓六腑のありかを  西川美和『ゆれる』
『ゆれる』は、ぜんぜんゆれない。この点については私が声を大にして言うほどのことではないし、なにより、これはほとんど敗北宣言だ。この作品について他に何が言えるのか、私にはまだわからない。

『ゆれる』を観ている2時間、私は愉しまなかったのだろうか。オダギリジョーのなまなましい背中を。香川照之の的確すぎる顔を。伊武雅刀のへんてこな帽子とヒゲダンスを。とてもわかりやすい視線劇を。私の期待はほとんど裏切られず、『ゆれる』は定められた地点にきちんと着地する。10点満点の着地。でも私は、そんなものを映画に求めてはいない。私ははじめから多くを期待していなかったのだろうか。あるいは的外れな期待を寄せていたのか。

この作品は私の手の中に収まり、何一つ指の隙間から零れ落ちることなく、ごくごくと飲み干せてしまったようだ。にもかかわらず、私はまったく満たされていない。わたしが飲んだ(あるいは飲まされた)ものは一体何だったのだろう。私は今、それが実は砂だったら、せめてもの救いになるのではないかとさえ思っている。それほど裏切りに飢えているのだろうか。

『ゆれる』は腑に落ちる。でも、それは私の腑ではないのだ。私はきっと、五臓六腑のありかを探りたかったのだろう。映画にゆさぶられたかった。心より、もしかしたら身体を。死んだ女の肉体の変容に動揺し、風呂場で嘔吐するオダギリジョーのように、自分のはらわたのありかを知りたかったのだ。映画館の椅子に腰掛けたままで。贅沢な望みだろうか。

吊り橋、水面、ブランコ、そして視線。こんなにも揺れるものが画面に溢れているはずなのに、なぜだろう。『ゆれる』はちっともゆれない。もどかしいほどに。映画は寸分の狂いもなく、はみ出さず、『ゆれる』という器の中にきちんと収まっている。私はこんなに簡単に、映画を手中にしてしまってよいのだろうか。

『ゆれる』はゆれない。この映画のために、他に私が言えることは何だろう。『ゆれる』から映画をとり戻すために、わたしはまだ、その言葉を探している。


あいお


『ゆれる』2006/日本/西川美和
チネ・ラヴィータにて上映中

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ひたすら逸れていくもの 冨永昌敬『VICUNAS』
七夕からすこし遅れる7月9日、仙台で、冨永昌敬監督の『VICUNAS』(2002)に遭遇した。

その場所で私が一体何を見たのかを書き記すために、順序だてて思いだそうとするのだが、なかなかうまくいかない。
『VICUNAS』は掴めないのだ。掴もうとすればするほど、指のさきからこぼれ落ちてしまう、それがこの映画だ。

私は確かにそれを見た。しかしそれを所有することはできなかった。あるショット、ある音、それらを記憶のなかでこま切れにして慈しむ愛で方は、この映画にはそぐわないようだ。なぜなら『VICUNAS』は「見られるもの」「聴かれるもの」である前に、見ている私にとっての「いま、この時」だったから。私は確かに、そこにいた。イメージの向かい側に、音の只中に、映画とともに。

そして『VICUNAS』は、体験するそばからこぼれ落ちていく。
『VICUNAS』は、はぐらかしでも照れ隠しでも逃走でもなく、ただひたすらに私たちから逸れていく映画なのだ。
そこでの私は先回りができない。映画を掴みかけたと思った次の瞬間にはいつも、予想だにしない驚きがあらわれる。しかもその驚きは、出来事の結果としての驚きではなく、つねに通過点なのだ。驚きに立ち尽くす間もないまま、映画はぐんぐん続いていく。
私たちはしかし、おいてけぼりを食わされてもいない。映画とともに、映画のすこしだけ後ろをひた走る。そして冨永昌敬は、そうした観客の姿を嘲笑うことをしないのだ。

『VICUNAS』に向かうとき、まなざしでそこに映るものを愛でる暇など、スクリーンの肌理を撫でてほくそえむ暇などない。私たちはただ、映画とのランデヴーに身を投げる。
映画が眼の前にあらわれては消える、その一瞬ごとに。


あいお

「騙されない者はさまよう 冨永昌敬監督特集」にて
2006年7月9日 せんだいメディアテーク



恋しているのは誰?
 「この作品に観客は要らない」。フランソワ・オゾンは、そう思わせてくれる貴重な作家のひとりだ。彼の作品はいつでもきっちりと閉じられ、私たちのまなざしなど、端から必要としてはいない。

 『ぼくを葬る』も、もちろん、その例に漏れないだろう。あまり褒められた態度ではないが、私は初めからそのように高を括って、この作品を観はじめた。

 ところが、「不覚にも」と言うべきか「幸運なことに」と言うべきか、途中から、これがオゾンの作品であろうとなかろうと、そんなことは気にならなくなっていたのである。斜に構えたまなざしが、一瞬、真っ直ぐにスクリーンへと注がれてしまったのだ。

 非常に不純な動機なのだが、それはひとえに、主演のメルヴィル・プポーのお陰なのである。彼さえ愛でることができれば、この作品を赦してしまえるのではないかと思ったのだ。

 作品の前半、キャメラは、メルヴィル演じる死期の迫った青年の代わりに、彼の恋人に欲情する。ところが、後半のキャメラは一転し、メルヴィルに対して欲情する。ひたすら彼を愛することに終始するのだ。まさにキャメラはメルヴィルに恋しているかのよう。

 しかしやはり、再びオゾンが出現する。メルヴィルに恋するキャメラにのせられて、つい彼に恋してしまいそうになる私に歯止めを掛けるのは、やはりオゾンだ。

 『ぼくを葬る』のメルヴィル・プポーは、実はキャメラに愛されたわけでも、まして映画に愛されているわけでもない。身も蓋もないが、彼はオゾンに愛されているに過ぎない。オゾンはメルヴィルを愛する。よりによって、キャメラという機械を用いて。もちろんその愛によってこの主演男優がたいへん美しく作品の中に収められていることにかわりはないのだが、だからといってこの作品が「美しい映画」になりうるとは決して思わない。相変わらず、彼の作品はどこへも行けない。

 やはりオゾンは、オゾンであり続けていた。やはり、観客は要らないのだな・・・・・・私もこれ以上、責めもしなければ呆れもしないつもりでいる。 
 

あいお
 
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