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仙台短篇映画祭2011 9月17日(土)-19日(月・祝)
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Capote in cold blood
「ティファニーで朝食を」、「冷血」(原題:In Cold Blood)の作者として知られるトルーマン・カポーティが主人公であり、著書の「冷血」を書くまでの過程を映画化した作品。「冷血」は600ページ以上に及ぶ長編で、事件が動きだし、犯人(スミスとディック)の死刑という形で事件が終わるまでを、スミス、ディック、犯人を追う警察官のデューイらの視点から時系列的に語られてゆく。事件を長期にわたる実体験による観察、解釈を通して作られた物語であり、まさしくドキュメンタリーの原型である。本書を読み終えた上で映画を鑑賞したため、その印象を述べたい。
映画はカポーティの感情、職業的欲望や使命感などの内面的葛藤に焦点を当てているように思われる。それに対し、冷血はカポーティという語り手が露になる機会は殆どなく、事件に関わりのあった人間関係が細部まで内面に語られ、事件の顛末を俯瞰している。そのため、映画ではカポーティ以外の人物描写が極限まで簡潔に記号的になっている。
そのため、関心をもったのはカポーティが自身の心理面である。表面的な物語の流れは、職業的成功への欲望に翻弄されるが、長い間対話を続け親近感をもつスミスの死によってその成功が得られるという状況へのジレンマに苦しむということにあるようだ。しかし、場面場面でのカポーティの反応からは受け取れることは、上記の包括的なジレンマだけではない。映画の中では、様々なシチュエーションにおいてカポーティが登場人物と会話するシーンが見られる。その中で登場人物の幾分か冷酷さを潜めた(またはそれを公然と意味するような)発言に会話が途切れる間がある。この間により会話は感覚的に断ち切られる。このカポーティが経験しているだろう個々の間は、決して言葉として本編中には現れることはないカポーティ自身のジレンマであり、それは職業的成功と知人の死の葛藤という確定は不可能である。そもそもカポーティ自身にとっても私たち自身にとっても言語化ははなはだ困難であろう。それはカポーティが自身の冷酷さと対面する間であり、関係を気付いてきた友人が突然見せる冷酷な面に気付く間であり、また視聴者が実生活や映画の中で対話の中で露になる冷酷さに気付く瞬間である。
この映画で描かれているシチュエーションは監督の発言にもあるように明らかに9.11を意識していると思われる。この映画を9.11の関連性で語る必要性は全くないが、社会的に示唆に富んだ面があると思われるので言及しておく。9.11当時の状況をこの映画のシチュエーションに照らしてみると、ホルカムの住民はニューヨーク市民(アメリカの国民)、スミスとディックはテロの実行者である。また、視聴者である私たちは直接の当事者ではないデューイやホルカムの住民に近い。思いもしなかった方法で敵に同士を殺されたという驚きや被害者意識や怒りが蔓延し、事件が起こる以前は意識しなかったことを突然意識するようになったという共通点をもつ。私たちの中にはカポーティのように第三者として当時者との会話や現場を体験した人はほぼ皆無であろう。そのため、この映画のカポーティの視点によって出来事の再現を体験することで視聴者それぞれが感じ取れることがあるに違いない。ある意味でUnited 93やWorld Trade Centerより9.11に関しては第三者である私たちにとって意味をもつ映画である。この映画はカポーティ自身に焦点が当てられ、また、カポーティ自身が様々な冷酷さに出会う。まさに冷酷さの中にいるカポーティ(Capote in cold blood)なのだ。

takao15

カポーティ
チネラビータで上映中
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