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仙台短篇映画祭2011 9月17日(土)-19日(月・祝)
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上海映画日記2
上海に送られてきた一本のDVD。
去年新しい才能プログラムで上映した佐藤良祐監督の新作『星の王子』

私は監督とお話をしたのは去年の映画祭のときだけですが、映画を通して会話をしているような気持ちになります。

映画の楽しみ方の大きなひとつが、この「映画と一人で向きあった先に何かがある」喜びなのかもしれません。



世界は広く存在は小さいけれど…と呟くのなら
佐藤良祐監督『星の王子』

佐藤良祐監督の新作『星の王子』は未成年犯罪、援助交際、母の喪失などマスコミを賑わし、あちこちで消費され尽くしている題材を扱っており、映画に限らず、巷で見かけるこのような題材を扱った作品の中には非常に陳腐になってしまっている作品も多い。しかし、この『星の王子』は、その陳腐さからとは無縁の場所にある。ある「世界」がそこにしっかりと映し出されているのだ。

ある「世界」とは、佐内正史氏の写真が映し出す世界と同じものである。

阿部嘉昭は佐内正史の写真について「身体が風景と溶融する」と表現した。それまでのアラーキーや森山大道といった写真家においては被写体(身体)が風景と溶融することはなく、風景から切り離され、逆にその被写体存在の個別化を図るものであると述べた。

佐内正史氏が写真を撮り出したのは92年ごろ。日本がバブル崩壊へと少しずつ向かい、95年には地下鉄サリン事件、阪神大震災が起こり、それまで当然あった「日常」すら、簡単に崩れてしまうことが個人レベルではなく、社会全体で実感することになってしまった時代。それがさらに進み、身体への感覚にも実感が伴わなくなってしまった。そのような時代に写真を撮る佐内正史氏の写真には人を被写体とした写真も、身体から放たれる存在感が映されているというより、風景の中の一部としての身体が映されている。

『星の王子』の中には、この風景の中の一部としての身体、言い換えれば、世界は果てしなく広がり、限りなく小さく押しつぶされてしまいそうな存在=人間がおり、観客もその世界の一部になってしまったような気持ちにさせる力がある。つまり観客も『星の王子』の中の住人になってしまうのだ。

しかし、一方ではこの映画には致命的な欠陥があることも述べなければならない。それは、この映画では人間たちがもがき、世界は変わらないけれど、人間は小さく弱いけど、そこから立ち上がる、始める、いや始まるのかもしれない、と小さな呟きにも似た希望を描こうとしている。しかし、描こうとしていることだけは分かるのだが、それが全く響いてこない点である。

希望を決して言葉で説明しろと言っているのではない。希望を分かりやすく提示しろと言っているのでもない。「日常」を信じられず「身体」すら実感できない世界に生きる小さな小さな人間の希望を描くのであれば、その風景から一瞬でも切り離されるほどの身体の存在感を映し出さなければならない。
ジャ・ジャンクーの『プラットホーム』における息、ツァイ・ミンリャンの『浮気雲』における汗や涙のような、ひたすら人間の存在を証明する流れ出す汗、息、涙、頬の赤み、体の重みあらゆる身体を(身体の変化・表現)を観客に見せつけ、人間の体を実感させることだけが、この映画における唯一の希望の表現になりえるのだから。


角田まゆみ
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2006/02/14(火) 14:09:12 | | #[ 編集]
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