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仙台短篇映画祭2011 9月17日(土)-19日(月・祝)
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上海映画日記3
ジャ・ジャンクー。
上海に来て一番会いたい人です。
さて、会えることやら・・・。





そこは中国でもあるが ジャジャンクー 『プラットホーム』


私たちは多くの映画を見ることができる。そしてそこから何かを知ることもできる。しかし実感することはなかなかできない。なぜなら、画面で繰り広げられていることは「自分のこと」ではなく、「誰かのこと」だからだ。つまり、情報として私たちは映画を消費してしまう。それが「外国」映画ならなおさらのことだ。「外国」という特殊性に私たちは映画を押し込め、知ろうとし、理解しようとする。

しかし、ジャ・ジャンクーはこの呪縛から逃れることができる稀有な人間である。


この映画は中国山西省の小さな町フェンヤンに住む劇団員4人の79年から89年までの10年間を描く。劇的な変化もなく、淡々と進む日常に何かしらのいらだちを覚える彼ら。都会にあこがれる彼ら。恋愛をする彼ら。この映画は79年から89年という中国が迎えた自由化が人々にとっていかなるものだったのかも、自由化が生活にひたひたと溶けていき、混ざっていく様子もさりげなく映し出してしまう。字面では(情報としては)理解できても実感できない「自由化」も、日常の生活においては少し可愛くなりたい、少し冒険したい、早く大人になりたい、そんな若者なら誰しも持つ小さな欲望でしかないことがよく分かる。

すなわち、この映画は中国の自由化を伝える「中国映画」でもある一方で、ひたすらそこに存在し、生きている若者の「青春物語」なのであり、ジャ・ジャンクーはいともたやすく国を超え、私たちの心に「自身」のこととして訴えかける。


ではそれを可能とせしめているものは一体何であろうか。
それは小さな欲望を持った若者たちがそこに存在することを伝えるショットと音である。

寒い冬、話すと出てくるその白い息。それは人間の存在を証明する息である。その息がなまめかしくゆらゆらと立ち上がると、周りには気配が漂いはじめる。息という存在が運動することで生じる生々しさが私たちの実感を導き出す。

また、映画に充満する音によって映画そのものを体験でき、スクリーンには映し出されていない「外部の存在」をも感じ取ることができる。言語を介在せず響く音が私たちの体を貫く。「理解」ではなく、音を体で感じてしまうのだ。

このショットと音が重なりあうことで、恐ろしいまでの切実さをもって『プラットホーム』は私たちを襲う。青山真治氏や阿部和重氏はカイエ・デュ・シネマ・ジャポン誌で「私たちは[日本の住人]でもあるけど、まず何より[映画の住人]だ」と述べていたが、まさしくこの『プラットホーム』は観客を[映画の住人]にしてしまう力にみなぎっている。


角田まゆみ
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