shortpiece!blog
仙台短篇映画祭2011 9月17日(土)-19日(月・祝)
201709<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>201711
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
上海映画日記→仙台映画日記
暑い上海から仙台へ戻ってきました。

上海を一言で表すと、全てを呑み込む街。
今が一番おもしろいかもしれません。
夏は暑いですが。


ところで、仙台に戻って幸せなことは
見たい映画がスクリーンで見られることです。

さっそくオゾン『ぼくを葬る』について書いてみました。

これからは上海映画日記ではなく、仙台映画日記を細々と書いていこうと思っています。



一番好きなのは自分でしょ、オゾン!
 ~フランソワ・オゾン監督『ぼくを葬る』

[死の三部作]の一つとして作られた『まぼろし』に続く『ぼくを葬る』は、自分自身の死をテーマに撮られたという。

新進気鋭の写真家ロマンは31歳の若さで癌があちこちに転移しており、余命幾許もないことを知らされる。化学療法などのあらゆる延命処置を拒み、自分の死について愛する恋人や家族、友人にも打ち明けず、一人で死を受け入れようとし、愛する者/ものを一枚ずつ写真におさめていく。


人間は生きている限り、自分の死を体験し、それについて告白することはできない。自分が死ぬ瞬間も死んだ後のことも私達は何も知らないし、知れない。だから、この映画でオゾンが自分自身の死について描いているのだと言うのであれば、一つの現象として淡々と見てもよかったのかもしれない。が、しかし私はこの映画に対して強い違和感を感じずにはいられなかった。

なぜなら、死への過程があまりにも汚くなさすぎなのである。ロマンを演じるメルビル・プポー(つまりオゾン自身)が美しすぎるのだ。

病魔によって人が死んでいく過程というものは、(誤解を恐れずに言うのならば)残酷なまでに汚く、苦しい。脳に転移すれば、意識は朦朧とし、目はうつろで口からはよだれが出る。腸に転移をすれば、排便もできず、食道に転移すれば、水すら飲めず、手や足に転移すれば、手や足を切り取らざるをえない。

死体とはモノである。私が上海で暮らしていた時、2体の死体を見た。道ばたにごろっと転がっているただのモノ。周りの人間は、驚きもせず、叫びもせず、まるでゴミを扱うように段ボールで死体をかくしていた。昨日までは温かく動いていた体がただのモノとして扱われるということ。


つまり、死とはロマンチックなものではない。汚く、苦しくそして単なるモノになるというだけである。オゾンはこの死への冷たい視線が皆無である。生を、言い換えれば死をまるで甘い甘いケーキのように描く。死への過程を描くプロットが悪いといっているのではない。このプロットを映画の中で昇華させたいのであれば、汚れと臭さにまみれた死そのものを映す冷徹なショットが必要だったと言いたいのだ。

オゾンは死という甘い材料を使って、自分の物語を作りたいだけなのだ。そう、オゾンが一番好きなのは、映画ではなく、自分でしかない。
スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
copyright © 2004 Powered By FC2 allrights reserved
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。