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仙台短篇映画祭2011 9月17日(土)-19日(月・祝)
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連載11~ぼくを葬る
死ぬということは、一方的で、身勝手なことなんだ。
「ぼくを葬る」を観て、つくづくそう思った。主人公ロマンは、祖母以外の親しい人に対し、何も告げないままに世を去る。疎遠な家族との距離もあえて縮めず、同棲中の恋人は突然追い出し、遺産を残した子どもとのつながりさえ、最後はたやすく断ち切ってしまう。
一方的で身勝手な死。これは、彼に限ったことではない。死は、本人以上に、残された者にとって、重く、大きなことかもしれないと思う(残される立場しか、経験していないせいかもしれないが)。突然訪れる事故や自殺はもちろん、死期をある程度は察することのできる病死や老衰でさえも、死は重い。そして葬式。最近は、格式ばった主役不在の大仰なものから、故人の遺志を尊重した「自分らしい」式へと、さまざまな葬式のかたちが生まれつつある。ただ、それは故人の満足を優先に考えたものであり、実は、残された者にとっては、従来のやり方以上に満たされないこともあるのではないか…とも思う。葬儀という、細部まで型が定まった膨大なプロセスを少しずつ進めていく中で、 別れを反芻し、ついには疲弊で悲しみを中和する…という先人の知恵ではないか、と。ただ、葬儀という礼式の波に容赦なく揉まれていると、人生の最後まで(死んでもなお)周囲(社会)との協調を第一に考えなければならないのか、というやりきれなさが湧いてくるのも確かだ。
赦し、ささやかな希望…死と別れにまつわる仄かな甘い感情から彼は背を向け、苦痛や孤独とともに命を終える。理想とは程遠く、自分らしさなどという曖昧な表現でも片付けきれない最期のつけ方。浜辺のラストシーンは、荒野のダニス・ダノヴィッチ監督「ノー・マンズ・ランド」のラストが連想された。日暮れと共に闇に紛れ、ちいさくなっていく人の姿…。このシーンにとどまらず、この映画は、さまざまな映画を想起させる。海のシーンは同フランソワ・オゾン監督「まぼろし」シェロー監督「ソン・フレール」やフェデリコ・フェリーニ監督「81/2」、法律事務所のシーンは「ふたりの5つの曲がり路」、列車のシーンは「愛する者よ、列車に乗れ」、パトリス・ルコント監督「列車に乗った男」…。死というものが、普遍的であるがゆえ、「走馬灯のように」イマジネーションをかき立てるのだろうか。

(追記:それにしても、最近のオゾン作品の邦題は懲りすぎている、と思う。「5×2」が「ふたりの5つの分かれ路」、「time to leave」が「ぼくを葬る」とは…映画の持ちえるイマジネーションをかすめ取ってないか?!)

cma
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