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仙台短篇映画祭2011 9月17日(土)-19日(月・祝)
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恋しているのは誰?
 「この作品に観客は要らない」。フランソワ・オゾンは、そう思わせてくれる貴重な作家のひとりだ。彼の作品はいつでもきっちりと閉じられ、私たちのまなざしなど、端から必要としてはいない。

 『ぼくを葬る』も、もちろん、その例に漏れないだろう。あまり褒められた態度ではないが、私は初めからそのように高を括って、この作品を観はじめた。

 ところが、「不覚にも」と言うべきか「幸運なことに」と言うべきか、途中から、これがオゾンの作品であろうとなかろうと、そんなことは気にならなくなっていたのである。斜に構えたまなざしが、一瞬、真っ直ぐにスクリーンへと注がれてしまったのだ。

 非常に不純な動機なのだが、それはひとえに、主演のメルヴィル・プポーのお陰なのである。彼さえ愛でることができれば、この作品を赦してしまえるのではないかと思ったのだ。

 作品の前半、キャメラは、メルヴィル演じる死期の迫った青年の代わりに、彼の恋人に欲情する。ところが、後半のキャメラは一転し、メルヴィルに対して欲情する。ひたすら彼を愛することに終始するのだ。まさにキャメラはメルヴィルに恋しているかのよう。

 しかしやはり、再びオゾンが出現する。メルヴィルに恋するキャメラにのせられて、つい彼に恋してしまいそうになる私に歯止めを掛けるのは、やはりオゾンだ。

 『ぼくを葬る』のメルヴィル・プポーは、実はキャメラに愛されたわけでも、まして映画に愛されているわけでもない。身も蓋もないが、彼はオゾンに愛されているに過ぎない。オゾンはメルヴィルを愛する。よりによって、キャメラという機械を用いて。もちろんその愛によってこの主演男優がたいへん美しく作品の中に収められていることにかわりはないのだが、だからといってこの作品が「美しい映画」になりうるとは決して思わない。相変わらず、彼の作品はどこへも行けない。

 やはりオゾンは、オゾンであり続けていた。やはり、観客は要らないのだな・・・・・・私もこれ以上、責めもしなければ呆れもしないつもりでいる。 
 

あいお
 
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